大切な人の死を乗り越えて...
私の命の恩人K社長とは、私が小さい頃から交流がありました。
K社長と私の父は親交が厚く、時折、私の自宅を訪ねてきてきれていました。
当時は「大きな会社の社長さん」という程度の認識しかありませんでしたが、私の大変な状況を唯一察してくださった20代前半からは、私の中で大きな支えとなっていました。
どんなに忙しくても年に数回会いに来てくれて、私を励ましてくれました。
「もっと頑張れ!」とビンタされたり、「テル、無理するなよ。しっかり休みな。」と優しく言ったり、無言でハグしてくれたり、遠く窓の向こうから手を振ってきたこともありました。
いつも関わり方は違ってたけれど、どれもその時の自分にとって必要な関わり方で何度も救われました。心の奥底で希望の火が消えそうになり、もう死ぬしかないと首にロープをかけたときにも「またK社長に会えるかもしれない」という思いが脳裏をよぎり、踏みとどまったこともありました。
そんなK社長の旧姓の知らせを受けたのは車トレーニングに励んでいた34歳の頃。
なんとしても1年後のK社長の社葬には参加して「ありがとう」を伝えるんだ!
そこから私の車トレーニングに対する姿勢が変わりました。
今までは不安が大きくなると前に進めなくなっていましたが、「K社長に会うんだ」という執念が不安に勝り、今までの限界を超えて前へ進むことができるようになりました。
K社長の社葬は隣の市で行われることになっていました。
そこは10年前に私がパニック障害を発症した場所です。自宅から会場までは車で30分の距離でしたが、まだ私はそれほどの距離を運転できる状態ではありませんでした。
しかし、そんなことは関係ありません。
ただただ何が何でもK社長にお礼の一言を伝えるんだ。
その一心で、車に乗れなくなっても這いつくばってでも葬儀に参加できるように、社葬の前日から車で向かいました。
途中、中間あたりにあるホテルで一泊し、翌朝再び会場を目指しました。
自宅以外の場所に留まること自体十数年振りでしたが、そんなこと気がつかないくらい必死でした。
そして、なんとか社葬に参加でき、K社長の優しそうな顔写真と向き合ったとき、悲しさと感謝が同時にこみ上げてきて、ただただ人目もはばからず大泣きし続けました。
同士に、大泣きしながら何も恩返しができない自分の無力さ、不甲斐なさを感じていました。
「もうK社長に恩返しができない。K社長に恩返しができないのなら、せめてK社長のような存在に自分がなろう。人の役に立つ人になろう。K社長のように、誰かが必要としているときに必要な言葉をかけられる人間になろう。」そう決意しました。
この瞬間、自分の生まれてきた意味を知り、10年間の引きこもりに終止符をうつことになったのです。
たった1人でも、自分のことを
気にかけてくれる人がいれば、
未来を信じられる。
<参考>
『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』
(PHP研究所)
第4章 大切な人の死を超えて
P200〜P206
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