「家族」がどういうものか、よくわからない

 私には一般的な「家族」という体験がほとんどありません。

 

 それは私が生まれ育った家の生活環境と関係があります。

 

 私が生まれた家はとても古く、とても大きな家で、変わった間取りをしていました。

 我が家の家系は代々酒蔵を営んでいて、酒造りをしていた頃に、杜氏さんや従業員さんが寝泊りしていた建物を、自宅として使っていたからです。

 ですから、帰宅するときは店舗の入り口を通り、日常生活は事務所と繋がっている居間で過ごします。トイレは居間の奥にあり、従業員さんと共用だったので、居間を人が行ったり来たり……。小学三年生になるまでは自分の部屋もなかったので、家の中でのプライバシーなどまったくない状態でした。

 

 この家に住んでいたのは父・母・姉・私・住み込みの従業員さん、そして離れ家には曽祖父と曽祖母が暮らしていました。

 物心がつく前から、自宅には毎日たくさんの人が出入りしていました。

 私は幼い頃から、お茶を出したり、ご挨拶をしたり、おもてなしをする側としてのふるまいをしつけられました。

 平日は従業員さんが事務作業をしていたり、お客さんが訪れます。休日になると、従業員など商売に関わる人の子どもと一緒に居間で過ごします。お昼になればチャーハンや焼きそばなど、一〇人前くらいをまとめて作り、子どもたちだけで一斉にご飯を食べるのですが、幼い頃から私の役目は、お手伝いさんと一緒に、子供たちに昼食を用意してあげることでした。

 お祭りや冠婚葬祭、選挙などのときにはたくさんの大人たちが集まる家でした。

 日中は必ず家族以外の人が家にいたので、いわゆる家族の会話はありませんでした。

 日が暮れて従業員さんやお客さんがいなくなっても、夜には接待営業などで取引先を回るために、父はいつも外出していて、家にいることは滅多にありませんでした。

 母は従業員さんがいなくなってから、夜遅くまで後片づけや帳簿つけをしていました。当時は、そろばんや電卓で伝票整理をしていたので、時間がかかるのです。だから、昼間とは違って、夜はいつも一人でご飯を食べていました。

 両親と一緒にお風呂に入った記憶もありません。


 「甘えてはいけない。お仕事の邪魔をしちゃいけない」と私は息をひそめるように暮らしていました。わがままを言ったり、迷惑をかけたら、両親に嫌われる、と思いこんでいました。


 幼稚園で遠足があるときも、「一緒に準備をしてほしい」と頼むことができなくて、自分で持ち物を用意していました。

 本当はそれほど好きではなかったけれど、「焼きそばパンが大好き」と言って、お弁当づくりに母の手を煩わせないようにしていました。

 家族旅行なども、もちろん行ったことはありません。

 

 このように父も母も忙しい毎日を過ごしていて、育児にまで手が回らななかったのでしょう。三歳年上の姉は、自宅から車で一〇分くらいの距離にある、母方の実家でおおむね生活していました。

 私も四歳の頃から、自宅から車で一五分くらいのところにある、遠い親戚に預けられることになりました。

 平日はその家に寝泊まりすることもあり、その親戚に親代わりとして育てられました。だから、姉との交流もほとんどありませんでした。


 昼も夜も、休む間もなく働いていた両親は、当時はとても大変だったでしょうし、もっともっと自分の子どもに愛情を注ぎたかったはず、と今では思います。

 でも、子どもだった私には、ただただ、寂しさしかありませんでした。

 私は里親を親代わりとして、両親とは親子らしい交流がほとんどないままに育ちました。

 そして、その里親さえ、なんの予告もなく、突然目の前からいなくなってしまいました。

 それは、私が五歳のときでした。



わがままを言ったり、迷惑をかけたら、

嫌われる、と思い込んでいました。





『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』

(PHP研究所)

第1章 誰も信じられない 

 P14〜P18 より



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